植垣康博さんを送る会前書き

 2025年4月13日文京区民センターで連合赤軍兵士植垣康博さんを送る会があった。なかなか豪華な顔ぶれだった。横浜国大の准教授や雨宮処凛さん、田原総一朗さんも参加された。岩田平治さんなど関係者も参加された。そのためか会場ビルの入り口が見える歩道に10人ばかりの背広族が手すりにもたれて数時間たむろしていた。久方ぶりの公安であろう。関係者はじじい ばかりなのでは張り合いがなかったのではないか。私も発言の機会をいただいて森恒夫も植垣康博さんもマルクスレーニンの著書はほとんど読んでないのではと指摘した。彼らは、マルクスレーニン全集に触れることはなかったと思う。私の後の発言者が植垣さんは、不合理に対する本能的に体の中から生じる反応として怒りを表明する人たちの代表者ではないかと発言された。私もそう思う。理屈で動き出した人と体の反応で動き出した人の違いであろう。三里塚での無党派集団や反日武装戦線の活動にも通じる。私の「大阪市立大学同級生が見た連合赤軍森恒夫」に挿入したい知見である。
植垣さんが連合赤軍事件を語り続けたのは彼なりの謝罪であったろう。彼の経営するバロンで語り合いたい人である。岩田平治さんが参加者に配った小さな木工細工は素晴らしいもであった。この技術で縄文土偶や埴輪を作ればビジネスとして成り立つのではないかとおもう。縄文、古墳愛好家としては手に入れたいものである。

司会者 金廣志さん

 植垣さんは出所後、スナックを始め、客と一緒に朝まで呑むことが多くて、最初出てきた頃は、俺の肝臓は真っ赤だとか言って、元気でいくらでも飲めたんですけれども、そのうち糖尿病になってしまいました。その影響もあったんだと思うんですけども、血圧も高くなったりして、ちょうど連合赤軍50年のイベントやマスコミの取材とかがある時に脳梗塞を起こしてしまいまして。あまり重いものではなかったんですけども。それで、自力で歩行するのが困難な状態になってしまい、施設に入っていました。
その頃に、もうこんなんじゃ生きてても意味がないとか、ちょっと愚痴をこぼしたりもしたんですけども。そのうち体調が戻ってきたんですね。これからだねというような時に、この年譜にもありますけれども、転倒して大腿骨を骨折して仕舞いまして、それで寝たきりになってしまいました。それが結果として、よく老人がなるパターンですよね、足を骨折して歩けなくなって寝たきりになって衰弱していくという、そういう状態になってしまったかと思います。後で、映像もあると思いますけど、最後の頃に若手のM君とかF君とかがお見舞いに行ってくれて、植垣の最後の様子を見とってくれたということですけども。今日は様々に植垣康博と交流のあった方々にご挨拶をいただきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
(第一部)
田原総一朗さん

左翼の過激な人たちは 革命をしなきゃで、革命をしてどういう国にするのか? 革命まではわかんないけど。では、革命を起こして どういう風にするのか?このビジョンがない。ここが つまり 左翼が衰退した。(原因ではないか)

青砥幹夫
私と植垣が入学した時の 弘前大学には新左翼の党派は一個もありませんでした。 それで、多少なりとも 社会的な問題とか政治的な問題に関わろうと思った時には我々は。 民青に頼るしかなかったんですね。 私も民青になりました。(伊福注:たしかにたまたまはいった大学に存在する党派からしか選択できなかったのですね。高校時代のカップルで彼女が早稲田に行きカクマルのシンパになり、中核派の彼と破綻した話もあります)
私も正直 20年やってきましたけど、一つ 言いたいのは植垣の バイタリティとかやる気 ついたのはどこから出てきたのかということを今でもよくわからないけど、私は彼の親友として同志として、哀惜の気持ちを持ってますが、弘前大学の昔の仲間たちも一緒の道は歩まなかったけれども、植垣のその後の行動に対して深い尊敬の気持ちと、それから 愛惜の気持ちを今でもずっと持ち続けている。そのことだけは皆さんにお伝えしておきたいと思います。

前澤虎義さん

山で、山岳ベース事件の間、2ヶ月ほど、ほとんどずっと一緒にいたわけですけれど、植垣の事、思い出がないんですよ。要するに ロボットというか、兵士というか、いわゆる無駄話もしないし、いろんな会話もしないから。彼の事はほとんど知らないまま、2ヶ月間みっちりと、ずっと一緒に生活したのに、彼のことは殆ど知らないという感じなんです。
あと、彼と僕のつながりというか、あれは僕が最後、耐えられなくなって逃げた。渋川の駅前で逃げたんですけど、彼はその逃げるのを見て、分かってて何もしないで知らん顔した結果、私が逃げられたわけですけど。そのずっと前に、まだM作戦やってる頃ですが、やはり一人ついて来れなくなった人がいた時も、やっぱり彼は逃してるんだよね。(伊福注;植垣さんは山田孝さんを逃がそうとして逃亡のチャンスを作ったが彼は逃げなかった)
大津卓滋弁護士
ある証人が「永田、坂口のためだったら出ませんが、植垣君のためだったら出ます」と行って出てくれた。

雪野建作さん

植垣君とは彼が出て来る迄は会ったことが無かったと思います。というのも私は71年の8月に捕まってしまったので。だから山の一番大変だった時は居ませんでした。それでも直接は関わっていませんが、71年の夏に二人が処刑された時、話は聞いていました。そもそも、その前年70年の末に、一人処刑しようという話がありました。その時は、無事回避できた罪深さって点で言えば。僕は永田や 坂口と同じくらい。 倫理的に刑事ということとは、別の意味で。 同じくらい 罪深いことをしたかったと思ってます。
(植垣さんは)やっぱり自分が事件の当事者として 証言する事を責務 だっていう風に。 思ってたんですね。そういう意味で 非常に彼としては 人間として本当に 責任。取り方を彼は全うしたと思い。
彼が出てきた後、全体像を残す会には殆ど毎回静岡から出てきてくれていました。彼は彼なりに取るべき責任を取り尽くしたと思います

(第二部)
馬込伸吾さん
私は赤軍の等を撮影しておりまして、その過程で植垣さんと2008年頃からお付き合いさせていただき2022年に植垣さんの病気が深刻になったので ですが、私は遅れて知ってしまいまして、これはまずいということで、急いで静岡に向かいました。その時からの様子が今から見ていただく 映像になります。
(映像2022年からの植垣さんの闘病生活を写したもの。21分)

第三部
坂口さんから追悼文
植垣君の死を知り、連合赤軍事件もみんなが鬼籍に入りつつある現実を強く思わざるを得ませ

伊福達彦
大阪市立大学文学部で森恒夫の同級生です。所属は民主主義学生同盟でした。
連合赤軍事件の2年前三島由紀夫を自刃しましたね。三島由紀夫のイメージは 2.26事件の青年将校のイメージあそこで あれに重ねたんですね。私たちの世代は1960年安保 の 樺美智子さん。これ私たちのイメージだったんでね。ただ、森恒夫とか植垣さんが? 何をイメージされたのか っていうのがわからないんです。
森恒夫、植垣さんはマルクスレーニン全集を見たこともないのではないかと思います。
木村三浩(一水会)さん
秋山さん 梅原さん 藤井大地さん 研修医Kさん
横国大準教授
思想的にこうしなければならないです。とか、そういう理由をつけるって言うよりも 何とかその本能的に という体の中から感じる。不満。不合理 みたいな部分に対して怒りをね。表現するというか 発信していくところが重要 なんじゃないかなという感じがしますね。で、植垣 さんは まさにその代表している 一人者だったんじゃないのかなという感じがしました。共同通信A

篠田博之さん
何らかの形で吉野さんの総括っていうのは世に残したいなという風に思ってます。吉野さんもですね。大きな病気をしたり、なかなか体調 そんなに良くないんですけども。連合赤軍についての自分なりの思いを 記録として残したいっていう意思は相当なものがありますね。まあ、植垣さんもそうだったんですけども で、これはやっぱりすごく貴重なものとして手伝いができたらいいなと思ったんです。
監獄人権センターの職員

司会の金さんの締めくくり

彼と初めて会ったのは1971年の3月5日 なんですね。これなんではっきり覚えているか と言いますと、横浜銀行の相武台出張所を襲って 150万を取った日なんです。 ね、その日に確か メンバーの中には1人 あの やっぱ 弘前大 の あれは s君だったか。k君だったか、どっちかが 腹巻 から 150万 どどっと出したんですね。それで私が数える。そしたら 報道では150万だったんですけど、実際には 179万ぐらいありました。だから銀行がこういう 銀行 1円でもね。うるさいのにこんなんでいいのかな? と思った。
赤軍派兵士だった関博明さんと植垣さんのお見舞いに行ったとき関さんが植垣さんの前で私に「お前はな、11歳の年下の女をもらって 犯罪者だ。 言ってたんですね。だから私じゃあこの32歳差は どうなるんだ?と言ったらそれは男の誉れという。」
この報告はスマホの「音声文字化」アプリで文字化したものをベースに伊福が独断と偏見で編集したした。もんです。主催舎の公式報告が出てないので個人の責任で公表いたします。

植垣さん年譜

1971/10/06     革命左派丹沢ベースへ鉄パイプ爆弾作りの指導へ、痴漢問題
1971/10/28     山田孝と南アルプス調査へ
1971/11/11     坂東・進藤と新倉ベースへ
1971/11/22     森・山田・山崎、新倉ベースへ
1971/12/01     新倉の鉄橋で大槻節子・Sを、更に永田洋子・坂口弘ら7人を出迎え
1971/12/04-7    共同軍事訓練
1971/12/16     森・坂東が榛名ベースに出発
1971/12/29     坂東らが新倉ベースに来、新党結成、榛名での暴力的総括要求を伝える
1971/12/31     坂東らが榛名へ出発、植垣・山崎、新倉ベースを片付け榛名へ
1972/01/02     山崎と共に榛名ベースへ
1972/01/11     Sと共に迦葉山方面調査へ
1972/01/22     迦葉ベース建設へ
1972/02/05     榛名ベース解体へ
1972/02/08     妙義へ移動
1972/02/16     妙義湖畔で私服警官と遭遇、裏妙義から山越えへ
1972/02/19     軽井沢駅で青砥・T・Iと共に逮捕
1972/05/08     殺人・死体遺棄等で起訴
1972/12/04     百回期日指定
1974/07       赤軍派(プロレタリア革命派)に永田・坂東と共に参加
1977/09/28     日本赤軍によるダッカ事件で釈放要求、釈放を拒否
1979/03       塩見孝也の日本社会科学研究所へ永田と共に参加
1980/        榛名ベース犠牲者慰霊碑「阿字の子が…」建立
1980/08       塩見と訣別
1982/06/18      東京地裁判決懲役20年、双方控訴
1984/05/28     『兵士たちの連合赤軍』彩流社刊行
1986/09/26     東京高裁控訴棄却、上告
1993/02/19     最高裁判決上告棄却、懲役20年確定
1993/04/20     甲府刑務所へ、5/13より刑務作業でミンクのコート作りに従事
1998/10/06     刑期満了出所
1998/10/23     一水会・鈴木邦男によるインタビュー(「創」1998.12)
1999/12/19     「坂口菊枝さんを支える会」高橋擅によるインタビュー(「しるし」春草号、紅葉号)
2000/06/10     南原企画・南原四郎によるインタビュー(「Luna-J」通巻15号)
2000/11/05     日本TVr知つてるつもり」出演
           (外、インタビュー、講演、TV出演等多数)
2001/02       「スナック・バロン」開設
2001/03       『連合赤軍27年目の証言』彩流社刊行
2005/02       バロン移転、「不思議な酒場スナック・バロン」に
2005/07/30      結婚
2021夏        脳梗塞で倒れ入院
2022/04/22      「不思議な酒場スナック・バロン」閉鎖
2024春        大腿骨骨折、寝たきりに
2025/01/23  誤嚥性肺炎のため死去(76)


大阪市立大学同級生が見た連合赤軍森恒夫
出版しました。
模索舎で販売しています

書評箱のペーjジから

「大阪市立大学同級生が見た連合赤軍森恒夫」を出版しました。
この本の目的の一つが森恒夫は大阪市立大学の学生運動では何もしていなかったことを実証することだった。何もしていないことの証明は意外と難しい。

連合赤軍事件からまもなく53年。世代が2回転して知らない世代が多数派になった。浅間山荘事件は話題性が高くなんとなく聞いた人はあるだろう。

連合赤軍事件の首謀者は森恒夫であるが、筆者は森の大阪市立大学文学部の同級生であった。当時の記録として「大阪市立大学同級生が見た連合赤軍森恒夫」を9月に出版した。

袴田巌さんが無実の判決を受けたのは2024年9月26日静岡地裁であった。事件から58年後のことだった。事件の犯人だという証拠を捏造された被告にとって自分がそのとき何もしていないことを証明することはとても難しい。何かをしていれば痕跡は残る。検察が作った証拠が捏造だと証明して再審と無罪を実現した。白いズボンを1年間味噌に漬けて生地は白いままで血痕だけ鮮明に残るという杜撰な証拠だった。それでも無罪まで10年掛かっている。

何もしなかったということの証明はなかなかむずかしい。刑事ドラマでアリバイ証明を求められても家にいました、というとそれを証明する人はと尋ねるられる。一人でしたとか家族と一緒でしたというと。それでは証明にならないという。

森恒夫が学生運動にほとんど関わっていなかったことは、私自身が体験していることであるが、その証拠を提示したいと考えた。連合赤軍森恒夫が大阪市立大学の時期に学生運動では何もしていないことの証拠を探して証明しようとした。連合赤軍事件を回顧した書籍は数多く出されている。大阪市立大学時代の森の動向がほとんど報じられていないのは、彼が学生運動の実績がないからである。学生生協で働いていた。フルタイムである。生協の事務所は専門部にあるので、森を学生運動の主戦場である教養部キャンパスで見かけることがほとんどなかった。連合赤軍事件で仲間をリンチするとき森はあたかも自分が歴戦の活動家のように振る舞った。 活動しておればその痕跡があるが活動していないので痕跡がない。森と同窓生である私も思いで風に書くこともできた。彼の小さなどうでもよいエピソードを書き連ねることもできた。だが森は大阪市立大学では学生運動にほとんど関与していなかった。そのため学生運動に関係する森のエピソードがないのである。

何かをしていたと証明することはできても何もしていないことを証明することはかなりむずかしい。当時の学生新聞を精査し森が出てくる場面を探したが、何もなかった。当時の学生運動では学生自治会が大きな権威を持っていた。学生運動のリーダーになろうと思えば、自治会の執行委員になることが必至であった。自治会が機能していたので多数派、少数派にかかわらず、多くの時間を自治会室で過ごした。各派が毎日顔を合わせるのは当たり前だった。活動しておればお互い必ず顔を会わせていた。個人生活の内面まではわからないが、政治活動をしている限り、党派は違ってもかなり接触していたと言える。森が市大学生運動と無関係であったことを証明するため市大新聞の記事を使い自治会選挙の立候補者、当選者を毎年調べ公表した。彼の名前はどこにもなかった。この調査に相当な時間を使った。大阪公立大学杉本図書館に50年前の市大新聞がなかったら不可能なことであった。

何故このように森が学生運動で何もしななかったことを一生懸命証明しようとしたのか。それは後のリンチ殺人事件へと爆発する彼の鬱積した気持ちが長く押さえつけられていたことを証明するためだった。


森の落涙



森は「冷酷非情な怪物」でも大量殺人に快楽を覚える「倒錯したサディスト」でもなく、最初から12名の殺人計画があったわけでもない。場当たり的な措置の積み重ねから生じたものである。森は7・6逃亡での臆病者扱いをただし、恥を雪ごうとしていた。12月7日だった。森は自分の言葉に感動し泣き出した。
「森君はこの後、自分の生い立ちを語り、さらにブントの総括も行った。かなり長い時問立て板に 水の訓子で演説していたが、突如、訓子が乱れ、跡切れ跡切れになった。何事が起きたのか、と思って見ると、涙を流し、胸を震わせているではないか。全員シーンと静まり返り、やがて誰かが貰い泣きをした。すると、釣られて幾人かのメンバーもすすり泣きした。私も胸がジーンと熱くなってしまった。」(坂口 浅間山荘)アイヒマンの落涙を思い出す。
 革命左派の70年12・18上赤塚交番襲撃闘争を日本革命戦争の開始といい、交番襲撃で射殺された紫野を軍神のように祭り上げ、褒め倒し革命左派を取り込むことに成功した。解体寸前の赤軍派と同じボロボロ状態の革命左派ではあるが、ともあれ合同により人員も武器も手に入った。12・7の森の落涙は、恥を雪ぎ、塩見をも超える地点に立ったと思い込んだからであろう。塩見は獄中で赤軍派の数々の失敗の原因を、指導部や路線の誤りにあることを認めず、兵士の意識が高くないせいだと主張した。これを受け森は殲滅戦を兵士の個々の内面の問題である「共産主義化」にすり替えることに成功した。
 このすり替えで、際限ない迷路に踏み込んでしまった。森は自分の行動を他者がどう受け取るかについて鈍感である。反面他者のこまかな行動には過剰に反応している。小嶋が窓を観ていたから逃亡を考えているとか、加藤は夜中に何度も目隠しを外し、異様な目付きで辺りを眺め回していた、逃亡を考えているに違いないとか気になっている。 一方で自分の言葉に感動し、落涙するほどの達成感、高揚感があり、他方でそれが崩壊しかねない状態を感じ取り、支配を維持するため過剰な暴力で場当たり的に対応し、尾崎充男を死に追い込んだ。森による最初の犠牲者だ。ここで引き返すか、居直るか。彼は居直りを選び「敗北死」という言葉を作り出したこれで一線を越えた。共産主義者の査問の伝統、銃による支配、虚構の軍隊での居直りが積み重なって大量殺人となった。正義や観念の暴走ではない。場当たり的なのだ。


「大阪市立大学同級生が見た連合赤軍森恒夫」の内容

内容は

第1章   市大学生運動グラフティ

第2章   市大民学同外伝

第3章   大阪市立大学民主主義学生同盟年譜

第4章   市大入学後の森恒夫

第5章   なぜ12人もの仲間を殺したのか

第6章   赤軍派とは

第7章   共産党、民青、共労党の査問の実態

第8章   まとめ 失敗をひきうける



模索舎での販売が始まりました。ご注文は模索舎に。

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連合赤軍 森恒夫を誰が社学同にオルグしたか

 安永さんという社学同の長老がいた。オルグの名手で、構造改革派の革新グループを支持していた森恒夫を一晩で宗旨替えさせ主流派に引き込んだ人だ。痩せて細長く浅黒い風貌で仙人のような雰囲気があった。私もこの人のオルグを受けた。レーニンの「国家と革命」という冊子を活用していた。レーニンは「国家とは、階級対立が解消できない状態にあることの帰結であり、反映でもある。る。「国家というものは特定の階級の支配機関であり、その階級は敵対する階級に対して融和的な態度なぞ取りようがない」革命においてプロレタリアートは「官僚・軍事国家機構を粉砕する」「資本主義社会と共産主義社会との間には、前者が後者に革命的に変化していく期間がある。政治的移行期も、この時期と並行している。そして、この時期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のものにはなりようがない」その冊子は返すのでなくプレゼントされる。「国家と革命」を読むと暴力革命以外にはないと思わせる迫力がある。森恒夫もこの冊子を読まされ、構造改革でなく暴力革命が必要だと納得したのだろう。安永さんのオルグを受けていた私は9月の民学同結成大会に勧誘されなかった。安永さんが考えた大学祭のテーマは「ここではない場所への行為」であった。社学同の雰囲気をよく表していた。民学同は「この場所でこそ、地を這う論争を」であった。
 教養部に生協食堂がある。入口を入り振り返って見上げると天井近くに細長いスペースがある。そこに各派が順番に政治ポスターを張り出していた。民青が教養部の食堂の壁に張り出したポスターで、全学連委員長の唐牛健太郎が右翼の田中清玄からお金をもらったことなどを批判した。それに対し安永さんは誰からもらおうと「金は金だ」と開き直った。唐牛健太郎は市大にオルグに来て5人の市大ブントを作った人だ。(唐牛健太郎の生涯は佐野眞一著「唐牛伝」を参照ください。) 当事者の回想を読むと田中清玄とブントの創始者島成郎は岸内閣打倒で意見が一致し田中からのカンパを受け入れたという。年間学費が9000円に時代にバス1台借り上げが7000円だった。早稲田だけでも二、三十台必要だった。何万人もの移動の足をカンパでまかなっていた。当時の食堂は今もあるが、壁には政治ポスターはなかった。(「大阪市立大学同級生が見た連合赤軍森恒夫」88頁所収)

「大阪市立大学同級生が見た連合赤軍森恒夫」は大阪公立大学杉本図書館、大阪府立図書館を始め北海道、山形、東京都、長野、京都府、高知県、岡山県、福岡県、沖縄県などの図書館でも読むことができます。大阪市立図書館、摂津市立図書館にもあります。模索舎、名古屋ウニタで販売しています。




写真は小川プロダクション「三里塚の夏」に映り込んでいた森恒夫



大阪市立大学学生運動グラフティ10頁



7頁コラム1 

樺美智子の恋

 樺さんは口数少く物静かであったが芯の強い人で、黙々と山程あった事務を背負ってこれをこなしていた。或る日、余りお喋りもしなかったその彼女が事務所から出ようとした私を追ってきて突然、「島さんは大人だから相談したいのですが、私、想いを寄せる人がいるのです……」と話しかけてきたことがある。不意のやや古風な告白に私の方がドギマギして「一体誰と……」と訊いた所、口ごもるように「Sさんです……」といって顔を赤らめたまま逃げるように事務所に入っていってしまった。……その後一度もゆっくり話す機会のないまま過ぎ、やがて彼女は東大に戻り文学部自治会副委員長となり学生運動に専念したために、彼女の想いがいかになったか知る由もなかったが、あの六・一五での死をきいた時、私のなかに強く浮かび、その後もずっと離れることのなかったのはあの時の彼女の胸の内であった。(島成郎 ブント私史)

「ただ許されるなら 最後に 人知れず 微笑みたいものだ」(樺美智子の遺稿集より)
※樺美智子さんの思い人を知りたくなったら、江刺昭子著「私だったかもしれない」参照下さい

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